テクノロジーの進化と人間について考える【Post-Truthの時代に思うこと】

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スマートフォンの登場によってたった10年で劇的に世界は変わっていきました。
誰もが当たり前にインターネットにアクセスするようになり、最新のソフトウェアを使用して今まで専門の技術をもつ人間にしかできなかった事でさえも、誰もが容易にできるようになってきています。
今後のテクノロジーの進化が人間にもたらす影響については、正直わからないことだらけです。
思考の整理もかねて、日々の考えを残しておこうと思います。なのでほとんどポエムようなものです。
今回はネットメディアの話題を中心にしたいと思います。

秘密と暴露

昨年、大統領選挙においてロシアがアメリカに対して情報攻撃を仕掛けて選挙に干渉していたことが報じられ、話題になった。
考えてみれば当たり前のことなのだが、世界にはプロパガンダをばらまく、ハッカーグループが存在しているというものだ。
アメリカもまた、国家の安全を守るという名目であらゆるネットワーク上の情報にアクセスすることができる。
いつ、どこで、誰と何をしていたか、容易に個人情報にアクセスし情報を得ることが可能となっているのが現実だ。
こうした状況から、プライバシーを守ることは自由であることであると訴え、国家機密を暴露することで現状に抗議する人まで出てきた。

インターネットという情報インフラが発達したおかげで、あらゆる情報を瞬時に伝えることができるようになった反面、情報が漏れる、広まるリスクが高まった。
誰だって、秘密を知れば他人に伝えたくなるし、ひとたびお酒を飲めば、自分の秘密すらもついついしゃべってしまう。
インターネットを使えば、秘密を世界中に暴露する事ができるようになり、大きな組織の秘密を知ったときには、きっとそれを暴露することは正義にすら思えてくるだろう。

Post-Truth

オックスフォードは2016年の言葉として「Post-Truth(ポスト真実)」を選んだ。
世界中の情報にアクセスが可能となった一方、情報に溢れすぎていて一つ一つの情報を精査する事が困難になってきた。
我々は、ソーシャルメディアが流す情報をいちいち真実かどうかを判断していない。
明らかに嘘であると一見してわかるものもあるが、記事の内容が正しいか判断できない場合でも、何度も目にしていたり、SNS上で信頼できる友人がその情報を好意的に受け取っていた場合、真実であるかのように思えてくる時がある。
情報が溢れている現代においては、「真実であってほしい情報」を無意識にかいつまんで生きていると言った方が正しいだろう。

嘘の記事を書く側が悪いと考える人も多いと思うが、記事を書く側は市場のニーズに沿って書いているだけだったりする。(決して肯定しているわけではない)
今、インターネットでよく読まれる記事とは、多くの人の感情に沿った記事だ。
情報の「質」や「事実」などはそこにはなく、あるのは「意見」だけ。
読んでいる自分と「意見」が一致していればそれでよく、いわば「味」ではなく「のどごし」のよい記事だけが大量に生み出され、消費されていく。
(この極めてアクセス数の少ないサイトでちゃっかり広告を載せている私が言うのもなんだが。)
どんなに程度の低い記事であってもPV、アクセス数といった数字があがることが正義であり、広告を出すクライアントも喜ぶ。
さらに読者も読みたい記事を読んでいるのだから、どこにも問題はない。
三者ハッピーの関係が閉じられた世界で構築されている以上、外野がいくら浅はかだと非難してもその中にいる人達は耳を貸すことはない。

このようにして「真実であってほしい情報」だけを消費し、それをあたかも現実として捉えるようになったことから、現代は「Post-Truth(ポスト真実)」の時代と形容されるようになった。

こうした状況を政治的に利用することも可能だ。インターネットの世界においても勝利はすべて組織力の問題である。
このような世界では情報の質や真実などというものは全く重要ではない。真実が正義だと振りかざし、虚構が悪だと非難すること自体が無意味なのだ。
意見はただ親しみか憎しみかを示すものに過ぎず、その内容は問題にされない。親しさを示すために、友人には賛同し、憎しみを示すために、敵には反対する。
たったそれだけの事である。

では、このような質の低い情報や情報攻撃を排除する事は可能なのだろうか。
情報を発信する立場として、特に大きな影響を及ぼす大手メディアが情報を拡散する際には、十分なファクトチェックを行うことは重要なことだと思う。
ソフトウェア的に、例えば、FacebookやGoogleが嘘の情報を排除する機能が人工知能の発展により実装される可能性もあり得なくはない。
それにしてもインターネットによる表現に規制をかけたりするような動きの方が、さらに悲劇的であると思われる以上、この偽情報の流布の流れを止めるのは困難だと思う。

クリエイティブってなんだ?

その上で、私個人としては、テクノロジーの発達によってもたらされた上記のような問題については、常に悲観的に解釈するべきではないと考えている。
これからのテクノロジーの進化は、おそらく個人の感覚を拡張することに大きく舵を切っていくだろう。
虚構と現実が入り乱れた時代においては、個人ひとりひとりの意思こそが重要になり、善・悪といった外部の影響はどんどん受け付けなくなっていくのではないだろうか。
これからもテクノロジーは人間を使って進化していき、この事実をいくら悲観的に考えてもこの流れを戻すことはできない。
そしていかにテクノロジーが進化しようとも、人間に残るのはテクノロジー対人間の問題ではなく、人間対人間の問題、さらにいうなら自分自身の問題でありつづけるのだと思う。
そして、だからこそ人間はこの変化に適応していけるだろうと考えている。
いずれ、サービスの提供者、機械の生産者、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、人間が価値を失う時がやってくる。
こういった議論になると、「人間はクリエイティブなことをやっていけばいい」という論調でまとめられる傾向があるが、クリエイティブなことってなんだろうか。
おそらく、クリエイティブとは固定的な善・悪といったものから逸脱して、自らが創造性を発揮していくことではないだろうか。
それは一見苦しいことのように思うかもしれないが、「かっこいい、かわいい、面白い」といった価値にもっと勇気をもって踏み出す必要があるのだと思う。
人間が楽しく生きるためにテクノロジーはあると考え、いやな時は無視し、楽しい時に心を集中すればいい。

結局のところ、そういうものなんじゃないだろうか。

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